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①カードゲームを人生と重ねて語ってみます。
②連想ゲーム・シンボリズム・比喩表現の危うさについて書いていきます。
どうもRAIMEIです。今回の記事は浅学で無知なRAIMEI氏の厨二病考察なので、中学生以下の方には刺激が強いかと思うので影響を受けないように注意です。お暇な人か、お優しい方に読んでいただければと思います、では本題へ。
①カードゲームと人生の符合
カードゲームと人生って似ていると思いませんか?
例えば、1枚のカードを1人の人間、それらによって成り立つ40枚のデッキを人間社会ととらえると、なんだかカードゲームは人間と社会の縮図のように思えてきます。
環境デッキは置いておいて、ファンデッキのデッキ内には、わかりやすく強いカード、あまり強くないカード、強いけど活躍させづらいカード、弱いけどなぜか活躍できるカード等、いろいろな立ち位置・役割のカードがあり、それらが一体となって意味を成すわけで、それは色々な人が押し合いへし合い生きる、全ての人が一体となって成り立つ、この人間社会と符合するのではと思います。
もう一つ、40枚のデッキを一人の人間、それによって成り立つ対戦環境を社会ととらえることもできます。思えば人間は一人で生まれて育つのではありません。自分という人間のなかにはたくさんの他人とのかかわりの中で得た記憶が眠っています。人は個人で完成する生き物ではなく、社会によって作られる生き物だということです。
つまり自分という40枚のデッキはそれまで出会った人々、友人、家族、恋人、様々なもう一人の自分のかけらという一枚のカードの総体であると考えるわけです。
そしてその40枚のデッキごとの力関係や相性によって、対戦の環境、世の中の強弱、盛衰が決まり、それが個々の人生という名の、個々のデッキや、その要素である内在する自分のなかの他人という名の、個々のカードに影響を及ぼしていくと考えられるわけです。
ここで社会的弱者の問題についても語りたいのですが、そこは次回に譲りたいと思います。
またこれは完全に余談ですが、カードゲームにはまる人というのは頭自体はいいのに勉強嫌いだってりで、能力の割には人生で割を食ってる人が多いように思います(RAIMEI氏はかなCことにそんなことはなかった、ただ頭チンパンな残念な人です)、そういう人は社会での成功の代替手段としてカードゲームでの成功を目指しているように思います。ファンデッカーにもそういった人たちはいますね。どういう形で自身のアイデンティティを保つかというのは人それぞれなので。
これまでの話は、何が正しいという話ではなく、要するにカードゲームを人生に例えると結構それっぽく符合するというたとえ話、または連想ゲーム(これは勝手にそう呼んでいるだけで、一般的な連想ゲームを意味せず、あるものと、一見全然関係ないようなあるものを関係づけて思考することを指しています)です。この後は連想ゲームやシンボリズム、比喩表現について、面白い例やそのいい点を、あげていきます。そして②でその危うさについて触れます。
1、遊戯王アニメにおける芸術的な連想ゲーム 人生=カードゲームロジック
僕は遊戯王の中でも思い出補正を除けば5Dsの初期が一番好きかもしれません。その初期に主人公の遊星が、収容所という名の刑務所に入れられれる話があります。その刑務所の所長は収容者をクズと呼び、不必要な人間と呼び、横暴なふるまいをしていました。怒りに駆られた遊星とデュエルをすることになるのですが、所長は遊星のデッキを取り上げて不戦敗で勝とうとします。
遊星のピンチを救ったのは同じ収容所の仲間達でした。彼らはそれぞれのお気に入りのカードを遊星に託し、40枚のデッキが出来上がります。彼らは言います。「遊星が所長の言葉を否定しなかったら、俺たちがクズだということを否定しなかったら、一生みじめな気持でいた」と。
しかし、一見それは寄せ集めデッキ、所長の鷹栖はクズどもから寄せ集めたクズデッキと一蹴します。
所長はイカサマまでして勝とうとしますが、最後は遊星のこのデッキの切り札、瓦礫の王の効果によって墓地のカードが30枚以上の時、3000ダメージを与える残骸爆破を発動して墓地に送られたカードの力で勝利を手にします。遊星は言います「世の中に不必要な人間などいない」と。
これがカード路線になってからの遊戯王の一つの完成形だと思います。よくカードになる前のほうがストーリー性があったというような意見も聞きますが、作者やスタッフは、カードゲームでどうやってストーリー性を出すか考えたすえに、このように人生と、カードゲームの要素を組み合わせて劇化するという手法を考えたのではと思います。僕はこう言った無言・無形の努力が世間に理解されないのであれば、それは残念でなりません。
言うまでもなく原作最終回もこの手法が全面的に押し出されていて、5Dsは正統後継作といったところです。
2、美味しんぼ 料理と人生の連想ゲーム・シンボリズム
遊戯王の話でないので、少し簡略化しますが、これはある人気絶頂の漫才コンビの一人が自分の力だけで人気が出ていると勘違いして、横暴なふるまいをして総スカンを食らう話です。その名をすべったさん。あいかたはころんたさん。その横暴だったすべったさんに本当の自分を見つめなおさせるために主人公リーゼント山岡が出したのが、柳川鍋です(美味しんぼは有名な漫画らしいので説明は省略)。
この柳川鍋というのは、ドジョウとゴボウを組み合わせた料理です。山岡さんは語ります。ドジョウもゴボウもそれだけ食べただけでは大してうまくはない。ようは味の世界では単体ではスターになれないと。しかしドジョウとゴボウが出会うことによって、一流の味になったのだと。
すべったさんは悟ります。自分がドジョウで、相方のころんたさんはゴボウだということに。笑いの世界では一人ではスターになりきれない二人が力を合わせたことによりスターになれたのだと。
そしてころんたさんのまつ寄席に駆けつけます。
これは料理と人生をリンクさせているパターンですね。この手法は美味しんぼではかなりおなじみです。
3、錬金術とシンボリズム-黄金、生命、星-
太陽,火,硫黄を男性,月,水,水銀を女性とし,錬金作業を両性の婚姻としてとらえた。…(コトバンク 錬金術より)
錬金術は科学の先駆け的な要素と、魔術的な要素の双方を持っていたといわれています。言うまでもなく錬金術師とは、卑金属を貴金属に変える研究をしていた人たちでです。錬金術師たちは上のように人の性別を物質にたとえました。いや別のもっと本質的なとらえ方をすると、生命の完全性と、黄金という金属の完全性を同一視していました。このようなシンボリズムは錬金術だけではなく、色々な神話・宗教にも見られます。錬金術は科学的な観点と、このようなシンボリズムを結び付けていたところが面白いと思いと思います。浅学なのでこれ以上はつっこんで話はできませんが、哲学の話や科学の思想史をかじるとこの辺に触れることになると思います。個人的意見ですが人の連想能力やシンボリズムは、科学の発展、発想の飛躍やロジカルな考え方に大きな影響を及ぼしているのではないかと思います。
ついでに言うと遊戯王GXの主人公、遊城十代が持っているエメラルドタブレットには賢者の石の作り方が書いてあると言われています。その作中でのデザインは千年アイテムの製造法が記された千年魔術所に酷似しています。あとホルスの目まで進むとフリーメーソンが出てきて一気に胡散臭くなるのでやめます。ただフリーメーソンは大学に資金を提供していたりと、実際にある組織だということですね。都市伝説通りの組織かはわかりません。
今までは連想ゲームやシンボリズム、比喩表現のいい面を見てきましたが、次からは、その危うさと魔力についてみていきます。
②連想ゲーム・シンボリズム・比喩表現の危うさ
それはズバリ、人の思い込みを強化したり、洗脳したりする働きを持っているということです。
1、「女の脳・男の脳」男は太陽で女は月
僕が出会った代表的な例でいうと、先に述べた錬金術師が一番ですが(彼らは科学と魔術をシンボルにより融合させていた)、そのほかにもシンボリズム等に影響を受けているであろう、またシンボルが悪い使い方をされている例を上げます。「女の脳・男の脳」という東大の先生が書いた古い古い脳科学の本がありますが、これほど科学(笑い)な本には中々お目にかかれません。
表紙では男が太陽で、女が月として描かれています。それだけなら良いのですが、内容を読むと、古い本なので仕方ないのですがかなり男尊女卑的内容です。
男の脳活動は前頭葉が働いている高度な活動であるのに対し、女の脳活動はより低次元の小脳的な動物的な脳活動らしいです。また男が歴史に学ぶのに対し、女は自分の狭い経験からしか物を学ばないというようなこともおっしゃっていました。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
さてその根拠はきっと頭のいい東大の先生ですから、MRI等による実験の結果なのでしょう。ところがこの時代にそんな便利なものはありませんでした。どうやら著者の女性の脳活動についての根拠は、著者の友人の女性作家の証言や体験談らしいです(笑い)。
まあ、別に東大コンプレックスがあるわけじゃないですよ汗、特定の個人をDISっているわけではないです。なんといっても、脳科学はまだまだ未知の分野ですから。それに一応著者の東大の先生をかばっておくと、養老孟司先生も若いころはさらりと女性軽視てきな発言を自著に書かれているのに対し、お年を召してからの本には男女の脳に違いはないと書かれているので、脳科学や解剖学は日夜進歩しているということです。大体僕は人を批判できるほど知識ないしな。ただ上の本の内容は流石に男の僕でもむかつきました。
で僕が思うのは、結局はこれも明確な根拠は出せないのですが、男が太陽で、女が月として書かれている、この女性軽視的な本からは、シンボルの悪い使いかたや、シンボリズムの悪影響を感じざる負えません。
男>女=太陽>月=男>女 シンボリズムを経由して差別的な意識が助長される危険性があるわけです。平塚らいてう が「元始女性は太陽であった」といったのを思い出してみてください。
自分では気が付かなくても、こういったシンボリズムによって、思考に影響を受けている例というのは数限りなくあると思えます。別にオカルト集団の刷り込みとか言う話ではなく、意味をもった記号に、いや記号に意味を持たせる人間の性質により、人はひとりでにその影響を受けてしまうといううことです。
言ってしまうと、あくまで太陽だ月だというのは比喩表現なのですが、それをいつのまにか本当の人間の性質や役割かのように錯覚してしまうということもあるのです。太陽だ月だと、人間と星は何の関係もありません。
マジカルバナナというゲームでバナナと言ったら黄色=黄色と言ったらキリンというように連想していくわけですが、だからといってバナナ=キリンとはだれも思わないでしょう。しかし人間の関係を星に当てはめるような考えが深くし染み付いてしまうと、このバナナ=キリンという間違った結論を簡単に信じるようになるのです。
さっきもいった 太陽>月=男>女 ようなことを本気で信じるようになります。
星と人間は何の関係もありません。そしてそれは始めのほうに述べたカードゲームと人生についても同じです。なんとなくにているだけで、それを無理やり関連づけているだけです。まったく関係ないです。
しかし違う物事を関係付けて覚えると人間は吸収しやすいのです。テストの時のゴロ合わせのように。これは芸術的な手法として優れていますし、発想の飛躍のためにもなくてはならないものだとは思いますが、まかり間違うと古代の錬金術師のように似非科学オカルトに染まることになります。
2、遊戯王-心の闇はあくまで比喩表現、心に闇は存在しない-
僕の嫌いな本と遊戯王を同列に語ることはしません。僕は感情的な生き物です。遊戯王を見ているとよく「心の闇」というキーワードが出てきますね。これは脳の中の倫理的に良くない働きのことを指していると思われますが、製作スタッフも視聴者も慣れっこになってしまうと、どうも本当に心に闇があるかのように錯覚してしまう危険があると思います。
そもそも根源的には正常な脳であれば悪い働きなどなする余地はないのです。たとえばある人が怒りに駆られて、ある人を殴りつけたとしましょう。これは倫理的には良くなくても、その人の脳の働きとしては正常です。
心の闇というのは、倫理的な比喩表現です、人間の心には闇などないのです。大好きな遊戯王で批判的なことを書くのは心苦しいのですが(特に心の闇言いまくっていたデュエルモンスターズと5Dsが好きなので、あと心の闇は関係ないけど初代とGX、ゼアル以降も好きだけど大人になっちったのと、忙しくてあまり見れていないからなー)、好きゆえにあえていまさら警鐘を鳴らしておきます。遊戯王にありがちな、心の闇等の比喩表現、シンボリズムには魔力があります。使う方も受け取る方も注意が必要だと思います。
まとめ
・人生とカードゲームを符合させるのは芸術的表現として優れているし面白い。
・連想ゲーム・シンボリズム・比喩表現をというのは意識的に用い、または意識的に受け取らないと、自身や他人に望ましくない影響を与えてしまう可能性がある。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。文章が散らかっているので、もう少し手直しするかもしれません。僕の発言は科学的根拠を提示できていないあくまで私見です。ただこの文章のように自分の考えや他人に与えられた考えに酔ってしまうということが人間にはあるので、そういった人間のもろさや面白さのようなものを今回書いてみたかったということです。
さらに遊戯王のストーリーの巧みさについてはいつかどこかで発言したいと思っていたのでそれができたのは喜びです。あと何回かですが、デッキ構築論・思想について書いていきたいと思います。今回は大体関係ない内容だったけど、次回はもう少し遊戯王に関係する記事にするつもりです。ではまたよろしくお願いします。